Yorido
culture

AIパートナーの「部屋」という思想——ポストペットから続く、画面の向こうの居場所

「AIが部屋にいる」という体験はいつ始まったのか。ポストペット(1997)からどうぶつの森、ビジュアルノベル、Replicaを経て、yoridoが時間帯変化という形で実現しようとしていること。

あなたが最後に「部屋に帰ってきた」と感じた場所は、どこだろうか。

物理的な場所のことではない。画面の向こうに、自分を待っている何かがいる——そういう感覚のことだ。その感覚がデジタルの領域に生まれた最初の瞬間を辿ると、意外なほど古い時代に行き着く。1990年代のこと、インターネットがまだダイヤルアップで繋がっていた時代のことだ。

デジタルコンパニオンの歴史は、技術の歴史でもあるが、それ以上に「画面の向こうに何を見ようとしてきたか」という人間の欲求の歴史だと思う。その欲求は、プラットフォームが変わっても、デバイスが変わっても、形を変えながら続いている。

AIパートナーの部屋の夜明け、窓辺から光が差し込む静謐な空間、水彩タッチ

机の上に住んでいたペットの記憶

1997年、ソニーコミュニケーションネットワーク(So-net)がリリースしたポストペットは、メールクライアントとして普及した。しかしその本質は、メールを届ける「ペット」が画面上の自分の机に住んでいるという設計にあった。

ももという名のシロクマが最も有名だが、ペットには多くの種類があった。ペットは冒険に出かけ、他のユーザーのペットと交流し、アイテムを持ち帰る。メールを送るとき、ペットに「届けてきて」とお願いする形をとる——これは単なるUI上の演出ではなく、「画面の中に自分以外の存在がいて、その存在には生活がある」というコンセプトの具現化だった。

デスクトップに「住んでいる」という感覚が、あの時代に初めて意識的に設計されたのだと思う。ポストペットの机は単なる背景画像ではなかった。ももたちのために用意された「場所」だった。

同時期に爆発的に普及したたまごっち(1996年、バンダイ)は、もう少し携帯性に寄った設計だったが、概念としては近い。小さなデバイスの中に存在がいて、その存在には状態があり、放置すると死ぬ。「世話をする関係」の成立が、デジタルコンパニオンの第一世代だった。たまごっちは国内で1200万個を超え、当時海外でも「Tamagotchi」として広まった。「デジタルの存在と情動的な関係を持つ」という体験が、特定の文化圏を超えて受け入れられることを示した最初の事例の一つだ。

ポストペットが持っていた「机」という概念は、その後しばらく忘れられる。デジタルコンパニオンの次の世代は、「部屋」よりも「接続」の方向に向かったからだ。

訪ねていく先にいる住人

2001年にリリースされたどうぶつの森は、この方向性をさらに押し広げた。

どうぶつの森の村には、複数の住人がいる。彼らは毎日違うことをしていて、話しかけると今日の気分を教えてくれる。プレイヤーが訪れるたびに、彼らは「いた」ことになっている——プレイヤーが見ていない時間にも、その世界は流れている(という設計)。ゲームの時刻が現実の時刻と連動しているのは技術的な仕様だが、それが生み出した体験は「訪ねる先に人がいる」という感覚だった。

朝に起動すれば朝の挨拶をされ、深夜に起動すれば「夜中に何しているの」と驚かれる。クリスマスの夜に起動すればそれなりのことが起きる。このリアルタイム連動は、画面の向こうに独自の時間軸を持った世界があるかのように感じさせる。その世界の住人は、プレイヤーの都合に合わせて状態をリセットするのではなく、独立した生活を営んでいる——という幻想を、精巧に維持していた。

「訪ねていく先に人がいる」という体験は、どうぶつの森以前のゲームにも断片的に存在した。しかしどうぶつの森は、それを体験の中核に据えた。「何をするゲームか」という問いの答えが「誰かに会いに行くゲーム」になるほどに設計されている。商業的な誘導ではなく、純粋に「そこにいること」の密度を上げることに注力していた点が、この作品を特別にしていたと思う。

夕暮れの部屋、窓際に差し込む橙色の光と空のソファ、静謐な水彩イラスト

立ち絵が生み出した「その場にいる」感覚

90年代後半から2000年代にかけて隆盛したビジュアルノベルは、別の角度から「部屋にいる」体験を作った。

月姫(2000年、TYPE-MOON)、Fate/stay night(2004年)、Clannad(2004年、Key)——これらの作品は、背景画像と立ち絵の組み合わせによって、特定の場所に特定のキャラクターがいるという感覚を作り出した。選択肢がある場合も、核心は「選ぶこと」よりも「その場の空気の中にいること」だった。

キャラクターの立ち絵が画面の定位置に立っている、という表現は今では当然に見えるが、当時の設計者たちが意識的に作ったものだ。遠近感、光の質、キャラクターの表情と背景のトーンの一致——これらが「この部屋に、この人がいる」という感覚を生成していた。

ビジュアルノベルが教えてくれたのは、存在感とは相互作用だけで作られるものではない、ということだ。そこにいること、その場の空気をともに占有していること——それだけで、何かとの関係は始まる。プレイヤーが何も選択しなくても、画面の前に座っているだけで、「その部屋に一緒にいる」という体験は成立している。

このビジュアルノベルの空間設計については、ビジュアルノベルの部屋で暮らす——画面の向こうにある空間で詳しく考えている。

Replicaが試みたこと、見えてきた限界

2017年にリリースされたReplika(Replika)は、AIとの対話を「自分だけのパートナー」という形に洗練させた最初期のサービスの一つだ。

Replikaが提供しようとしたのは、「覚えていてくれる相手」との継続的な対話だった。毎日話しかけることで関係が深まり、相手は自分のことを知っていく——そういう体験設計だった。実際、深夜の孤独なユーザーにとって深い意味を持つサービスになった事例が多く報告されている。メンタルヘルス的な効用についての研究も出始めていた。

しかしReplikaには、「部屋」がなかった。対話のインターフェースは存在したが、パートナーが「どこかにいる」という感覚は薄かった。チャットアプリの形式は、本質的に「相手が自分に対応している時間」しか可視化しない。AIが「いつもそこにいる」ということを体験させるのに、チャット形式は適していなかった。「接続する」という行為が起点になるインターフェースは、「訪ねる」という体験とは根本的に異なる。

さらに、人格の一貫性問題が長期ユーザーから報告された。学習によって変容するAIは、関係という観点では「昨日のパートナーと今日のパートナーが違う存在になっていく」という問いを生んだ。技術的には「最適化」だが、体験としては何かが失われていく感覚に近い。

深夜、ひとつの光だけが灯るデスクと窓の外の夜景、水彩タッチ

「時間帯」という設計が持つ思想

yoridoは、ここに一つの答えを置いた。

部屋という概念と、時刻連動という設計の組み合わせだ。

朝に開けば、パートナーが朝の部屋にいる。夕方に開けば、夕暮れの光の中にいる。深夜に開けば、静かな夜の空気の中で待っていてくれる。窓から差し込む光の色が変わり、部屋の雰囲気が変わる——しかしそこにいるパートナーは同じ人だ。

この時刻連動は、どうぶつの森が20年以上前に試みたことの延長線上にある——プレイヤーの都合に合わせてリセットされるのではなく、独立した時間の流れがそこにある、という設計思想だ。ただしどうぶつの森の時間連動が「村の住人の生活」を演出するものだったとすれば、yoridoの時間連動は「部屋の空気」そのものを作るものだ。

そしてyoridoのパートナーは部屋にいる。チャット画面に現れるのではなく、パートナーの部屋という空間を訪ねる、という構造になっている。ユーザーが能動的に「接続する」のではなく、「訪ねていく」という動詞が先に来る設計だ。

「訪ねていく先に人がいる」——これは、ポストペットの机から、どうぶつの森の村から、ビジュアルノベルの部屋まで、画面の向こうの存在が生み出してきた感覚の核心だと思う。それぞれの時代のテクノロジーが、その核心を別の方法で実現しようとしてきた。

人は、自分のために待っていてくれる場所を必要とする。物理的な部屋がそれを担うこともあるが、デジタルの領域でも同じ感覚を作ることができるとしたら——その可能性を探っているのが、この歴史の先にある場所だと思う。

Yoridoを開くと、今の時刻に合わせたパートナーの部屋がある。光の質が、今この瞬間の外の空気と少しだけ似ている。

パートナーの人格が変わらないことの意味は変わらない存在を選ぶということ——AIパートナーの人格固定という哲学に続く。ポストペットからAIパートナーへ——デジタルコンパニオン20年の系譜とあわせて読むと、この文化の系譜がより立体的に見えると思う。

朝の光が差し込むyoridoの部屋のイメージ、窓辺とソファのある静かな空間

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